はじめに
どうもみなさんこんにちは、管理人のmasaです。
今回のテーマは鯉のぼりと端午の節句の由来についてです。
これから春に向かい暖かい日がだんだんと増えてきますね。
春の青空に雄大に泳ぐ鯉のぼりは、古きよき日本の風景の代表の一つといっても過言ではないでしょう。
最近の住宅事情により、大きい鯉のぼりを掲げるお宅は減ってきてしまいましたが、後世に伝えていきたい文化の一つ。
今回はその鯉のぼりと端午の節句に焦点をあてて、その由来についてお話していきたいと思います。
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【鯉のぼりを飾る「端午の節句」とは?】
まず、鯉のぼりのお話をしていく前に、「端午の節句」について見ていきましょう。
端午の節句はご存知の通り、男の子の節句として3月3日の「桃の節句」(ひなまつり)と並んで有名な節句です。
節句とは、中国を起源とする陰陽五行説を元にして作られた、伝統的な行事を祝うためのお祝いの日に当たります。
端午の節句や桃の節句の他には七草粥を食べる七草の節句、織姫と彦星が出会う伝説で有名な七夕の節句、あまり知られていない9月9日の菊の節句などなど。
端午の節句は別名で「菖蒲の節句」ともいわれています。
もともとは中国から入ってきた厄除けの儀式です。
中国では古来より旧暦の五月に疫病がはやり、亡くなる人が多かったそうです。
5という同じ数字が続くこの日は特に縁起が悪いと考えられたことから、菖蒲を家の門や塀に差したり、菖蒲を漬けた菖蒲酒を飲んでお清めをしたりしていました。
日本では武道を重んじる考え方をあらわす「尚武」とかけたのと、菖蒲の葉は先端がとがっていて刃物を連想させます。
そのため男の子が産まれた時は「武勇に優れた逞しい子に育ちますように」という願いをこめてお祝いするようになり、やがて男の子の行事になったといわれています。
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【どうして「鯉のぼり」を飾るようになったの?】
次に、なぜ鯉のぼりを飾るようになったのかをここでは触れることにしましょう。
端午の節句は中国から伝来したものですが、鯉のぼりは日本独特のものです。
その起源は室町時代までさかのぼります。
この時代は武士の間で菖蒲の節句に旗指物(はたさしもの)といわれる家紋が描かれたのぼりを虫干しを兼ねて飾る風習がありました。
その風習を真似て、庶民の間に金太郎や武士の絵が描かれた武者のぼりを掲げる風習が根付いたそうです。
江戸時代には将軍家でも男の子が産まれると、盛大にのぼりを立ててお祝いをするようになりました。
また、庶民の間では武士の絵だけでなく鯉が滝を登るといった構図ののぼりを飾る風習も出てきます。
鯉の滝登りは、中国では「鯉が龍門を流れに逆らって泳ぎ、龍となる」という伝説があります。
龍門とは黄河の上流にある滝の連なった激流の場所のこと。
この伝説は登竜門という言葉の由来とも言われています。
そんな事からもこの時代から出世の象徴とされていた縁起物であったようです。
こいのぼりには、黒い真鯉が描かれていただけでしたが、やがてそれは鯉そのものをかたどった鯉のぼりになりました。
明治時代頃になると、その時代は生まれてすくに亡くなってしまう子供の厄除けとして吹き流しが加えられ、時を同じくして緋鯉も飾られ始めます。
また子供の鯉のぼりも昭和時代からつけられるようになって、現代の鯉のぼりに近づいていったといわれています。
時代によって少しずつ変化して、今の形になっていったんですね。
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【まとめ】
こうしてみてみると、端午の節句や鯉のぼりは昔から脈々と日本だけでなく様々な場所で行われてきた行事ということが分かりますね。
その時代に考えられて取り入れた変化を経て、現代の形になっているのです。
そういった変化の中でも変わらないものがあると思います。
それは、いつの時代でもどこの国でも願われている、「子どもたちが健やかに過ごせますように」という万人の願い。
今年の子供の日は端午の節句やこいのぼりの由来だけでなく、その万人の願いも子どもたちに伝えていく日になるといいですね。
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